帰りたいけど帰らない

寺山修司の「書を捨てよ町に出よう」や「家出のすすめ」に、田舎へ帰りたいけれど帰らないという話が出てくる。わたしはその話に非常に共感を覚える。

言葉に表すのが難しい感覚なのだが、わたしは別に「地元帰りた〜い」と思っているわけではない。もっと奥底の希求としての帰りたさだ。思考とは別の次元といえばいいのだろうか。思考的には、帰らずにここでやりたいことがあるし、重たい自由を感じる生活は幸せだ。でもそれとは別で、帰りたさ、ふるさとへの申し訳なさ、罪意識のようなものがある。そして難しいのは、思考の上でも「帰りたくない」というわけではなく、生まれたところとは違う場所で(自分が選んだ場所で)生きてみたいという欲求があるのみであって、うーん要は「帰らない」選択をする理由はその一つしかないのに「帰る」理由は山ほどあるのが難しいのかな。

これは「生まれた場所なんてどうでもいいじゃん」「自分の人生でしょ」と考えている人にはたぶん分からない感覚だと思う。わたしも本当に、「私の人生は好きにするぞ」と思っているし、だからこそいま違う場所で働いている。しかし、自分に連なるものたちや、わたしに深く根差したものたちの存在を無視することはできない。わたしは単体で存在しているわけでなく、故郷の土はわたしであり故郷の人もわたしだ。そう感じてしまう。いわゆる郷土愛とも違うと思う。もっと密接に自分ごとな感じ。

わたしがこの話を人にすると、旧弊で古臭い風習に縛られていると捉えられることもあるが、決してそうは思わない。縛られていることは否定できないものの、だから大切でないと言い切ることはできない。じぶんと地が結び付けられている感覚はとても愛おしく、しなやかな強さをくれるものだ。

ごめんなさい愛しているけれど、本当に大事だけれど、それよりもじぶんの命をじぶんで使ってみたいんですごめんなさい。とずっと思っている。