22さい

わたしはいま、22才。あと2ヶ月ほどで23才になる。

22才の誕生日には伊勢正三の「22才の別れ」を流してケーキのろうそくを消すつもりだったのに、すっかり忘れていたことはいまだに後悔している。

私の誕生日に22本のローソクをたて

ひとつひとつがみんな君の人生だねって言って

17本目からはいっしょに火をつけたのが

昨日のことのように

こういう歌詞。

 

まあそれはいいとして、最近多い現象がある。その名も「もう5年近くも使ってるなあ感慨深いなあ」現象。17才の春に一人暮らしを始めたので、そのころから使い続けていたり何度もリピートしているものはちょうど5年が経つことになるのだ。例えばMDノートとか、お気に入りのマグカップとか。5年というのは私の感覚で言えばわりと長い。使い込んだなという気持ちが生まれてくる。そしてそれはとても嬉しいことだと思っている。

「長く使ったモノ」の魅力はずっと感じていた。何十年もモノを使う本はたくさん読んだし、祖母が持っている古そうな竹カゴは細部まで思い出せる。それは「自分には手の届かないモノ」だと感じていたからだ。何百万の車は一生懸命働いたら買えるかもしれないけれど、30年使ったカゴ(しかも古道具屋で買ったわけでもなく自分だけがずっと使ったもの)を手にしている自分はさっぱり想像できなかった。だからこそ魅力的だった。でも22才のわたしの手の中には5年使ったマグカップがある。30年に比べるとひよっこだが、幼い頃とは明らかにちがう感覚でマグカップを眺めている自分がいる。

 

実は20才を過ぎてから、自分の人生みたいなものがよくわからなくなっていた。そんなに深刻な話ではない、よくあることだと思う。良い高校と大学に行ってたくさん勉強するところまでしか親も先生も教えてくれなかったし、自分もその先を考えることはしなかっただけだ。なんとなく、20才くらいが人生のピークでそのままわたしは消えるんだと考えていた。だから21才の誕生日が来たときはとても変な感じだった。それからずっと未来はぼんやりしていた。今思えば幼稚だが、大学進学までのストレートで明確な道筋とはあまりに対照的だったのだ。正直に言えば、今も未来は大してはっきりは見えていないが、それが当たり前でそれが自由ってことなんだと思う。(そもそも明確な未来が見えている時はたぶん何かが過剰なときで危ない)そんな中で、「5年使ったモノ」が持っている確かさと永続性の欠片は宝物のように感じる。

 

年齢の重みみたいなものは確かにあって、それは他者に対しての威厳みたいに語られがちだけれど、本当は自分で自分を感じられる重みのことなんじゃないだろうか。年を重ねるにつれて、使っているモノも自分も重たく深くなればいいなと思っている。あと、なんだかんだ言ってずっとやってたら上手くいくもんだなってのも最近の感想として付け加えておく。