自粛生活とからだ

1ヶ月くらい継続して筋トレをしている。簡単なことしかしていないが、運動がこの世で一番嫌いな私からすれば驚くような快挙だとおもう。

 

私は今まで自分の身体を気にせずに生きてきた。と、いうか、世の中からの押し付けと内発的?考えを分けることが出来なくて目を背け続けていた。(痩せているのが正義なのか疑問に思いつつも何がなんやら分からなかった。)しかしこの1ヶ月ちょいは、知り合いが誰もいない環境でずっと家に引きこもっていたので、わりあい落ち着いて自分のことを考えることができた。痩せろと言ってくる彼氏に文句を言いつつも「やってみるしかないか」と思えた。それでまあ走りたくはないが筋トレは好きだなと思ってとりあえずはじめた。するとこれが面白かった。続けていればうっすら身体が変化してくる。そこに「良い」とか「悪い」とかは何もなかった。ずっと、良い悪いが決まることが怖かったのに、なんとなんにもなかったのだ。ただ私が私の身体を使って、それに合わせてすこーし変化したというだけだった。ものすごく安心したし、はじめて自分の体を発見したような気持ちになった。ちなみにこのことは、私とよく似ていてかつ大部分は全然似ていない友だち(意味不明だがこう言うしかない)に筋トレをしていることを話して、彼女が「身体性の獲得だよね」と教えてくれたから気づくことができた。メンターみたいな奴だとおもった。

 

体つきや服装に良いも悪いもあるかクソと悪態をついて逃げていたのに、理解できていなかったのは私だった。お恥ずかしい。でも、世の中の価値観に疑問を持つとそれに迎合するようなことは一切できなかったのに、切り離して考えることができるようになったのは成長じゃん?やったね。

 

 

始めたばっかりなのでこれ以上書き進めることは難しくなってきたけれど、先があるなという予感はしている。また新たな発見があったら書きたい。

さいきん

まいにち7時まで仕事して、ごはん食べて、散歩して筋トレしてお風呂入ったらもう寝る時間なんだけど、これいつ書こうね。

 

もっと効率良くすすめるしかないのだけれど、仕事中はずーっと新しいことをしているわけなので進みで言えばめちゃめちゃ悪い。早く終わらせて17:30に上がれるとだいぶ変わるよね。明日からはともかく17:30上がりを目指す。

わたくし

わたくしについて考えている。わたしは自己や自由意志の存在を疑っている。わたしは人びとのあいだにのみ存在しており、個として存在しているわけではない。周囲から浸潤されていると同時に周囲へ浸潤している。失敗したスライムのような感じ。ぶちゅぶちゅとした硬い部分とゆるくてサラサラな部分とが混ざり合って揺られている。スライムのどこまでが自分かはわからない。はるか彼方まで自分のような気もするし、この腕ですら本当に自分なのか不安なときもある。

 

わたしを認知する人間がこの世にひとりもいなくなればわたしは消えてしまうのかと考えたりもするが、それは違うだろう。人間以外のもの、わたしが食べた魚やそのために使った食器が、私をここにつなぎとめている。それにわたしがわたしを知っている。

ではわたしがわたしを解らなくなったら?おもしろい話を読んだ。認知症研究の第一人者である長谷川先生は3年前に自身が認知症であることを公表した。「確かさ」がどんどん失われていく生活の中で、日記に「僕の体や、精神、心のすべてに瑞子(妻の名前)がいてくれる。この感覚は初めてだ。なんというのだろう。いつも瑞子と共にいる喜びだ。幸せだと思う。」と書いた。わたしがわたしを解らなくなったとしても、そのぶん周囲が入り込んでくることでわたくしは成り立っている言えそうである。そして長谷川先生はそれを幸せと称した。わたしはここに夢をみている。確立された自己や、高い自己肯定感や、際立った個性ではなく、たくさんのものと連関しあい、他者と思われていたものが自己であったという幸福。

 

書くことについて

 昨日一昨日ともに20人くらいの人が読んでくれていてとても嬉しかった。読みにくいし、面白くも心温まったりもしないのに大変ありがとうございます。

 

 今日はこれを書きはじめた理由について書いてみようと思う。

 

 わたしはことばに対して少し潔癖というか完璧主義なところがある。その最たるものは手垢のついた表現の毛嫌いだ。例えば「太陽のような君」とか「(面接の場面で)私は潤滑油のような存在です!」とか。聞くだけでゾッとしてしまう。たしかに、使い古された表現は避けるべきなのだが、それは「使いやすいからと言って安易に使い回している」ことが問題なのである。だから本当の本当に太陽のような人に出会った場合に「太陽のような人だった」と書くことが悪いわけではないとおもう。自分の目で見て肌で感じたことを自分の言葉で書ききれるかが、いちばん重要なのである。

 でもわたしは手垢のついた表現を避けようとしすぎて(その他にも嫌悪することがありすぎて)、本質を書ききれなかったり、ともすると書くことを途中でやめたりしてしまう。短歌に対してもそう。読む/詠むどちらも理想ばかりが先にあって手が進まない。要は頭でっかちなのだ。

 

 このブログはでっかい頭に似合う体が欲しいなあとおもって書きはじめた。だから酷いレベルのものもあげていく。自分の理想を自分の文章で砕くのはもう本当につらく恥ずかしいものだなと、3日目でひしひしと感じる。

 

 書くこと自体はとても好きなので、細く長く続けられたらなと思っている。やっぱり書かなきゃ上手くならないからね…。

f:id:haru_izumi:20200507235042j:image

 

プレゼント

 今日は一日中「プレゼント」について考えていた。コイツ暇なんだなと思ってほしい。

 

 きっかけは1冊のメモ帳である。高校1年だったか2年だったかの誕生日に友だちがプレゼントしてくれた、可愛らしい女の子が描かれたおしゃれなメモ帳。わたしはそれをとても大切にしていて、先日は彼氏のお母さんへのちょっとした手紙もこのメモ帳で書いた。

 

 今日もそのメモ帳を使っていたのだが突然「なんでこのメモ帳をこんなに大切にしてるんだ?」という気持ちになった。だって、メモ帳だよメモ帳。確かにおしゃれだけれど物凄く珍しい紙が使われてるとかそういうわけではない。でも大切にしている自分がいる。なんでだ?

 

 それで一日中考えていた。プレゼントはいろいろともらってきたが(ありがたいね)、正直ひとつひとつをこのメモ帳ほど大事にしているわけではない。もちろん全て嬉しかったし全て使っているが、なんかこう、思い入れがちょっとだけ違うのだ。

 なんでだろうと考え続けて、出た結論は「関係性が見えやすかった」というものだった。メモ帳をくれた友だちは細やかな女の子で、わたしが好きそうなものと彼女の好きなものと使いやすさと貰いやすさと、わたしと彼女のあいだにある全てを考えてプレゼントしてくれていた。そのメモ帳にはわたしと彼女の関係性が「そのまま分かりやすく」含まれていたのだ。だからわたしは「これは大事なものだ!」と認識できた。メモ帳を大切にすることは彼女との関係を大切にすることに等しいとすぐ気づけた。

 そうして貰った瞬間から「大切なモノ」になったメモ帳は、使うに相応しい大切な場面で使われてきた。ありがとうの小さな手紙とか、嬉しかったことを書き留めたりとか、旅行の計画とか。そんな風に使うことで「大切なメモ帳」はもっともっと大切なメモ帳に成長していた。

 

 これは自分で買ったメモ帳ではこうはいかない。私と相手の関係性が内包されているからこそ、起こり得たことなのだ。そしてその場合、メモ帳は絶妙な選択だったといえる。プレゼントされたことによって、日常では重要度が低いはずのメモ帳が「大切なモノ」になった。そのためわたしは自分でも驚くほどの思い入れを持つようになったのだとおもう。

 

 プレゼントとは奇妙なものである。モノ自体を遥かに超えたり、逆に下回ったりする。(モノ以外のプレゼントでも同じことが言えるだろう。同じ言葉でも嬉しい相手と嬉しくない相手がいたりするし。)関係性があるからプレゼントを贈り合うとも言えるが、プレゼントによって関係性が構築されている側面も大いにある。

 

 最後に、ここまで書いてきて気付いたことがある。私はプレゼントを選ぶときは慎重でも貰う時はそうでもない。わ〜くれるの〜嬉しい〜といったところだ。けれどプレゼントは貰う時も、選ぶ時と同じかそれ以上に慎重に想像力をはたらかせる必要があるのではないだろうか?それは相手との関係を敏感に、丁寧に、扱うことである。プレゼントへの想像力がほしくなった🎁

 

f:id:haru_izumi:20200507212329j:image

 

神さまのはなし

たいそうなタイトルをつけてみたが、中身は大した話ではない。好きな歌の話をしようと思う。(期待させていたらごめん。)

 

とっても好きで、神さまを信じるようになった歌。それはandymoriの「ジーニー」という曲だ。友だちに向けて歌った曲で、有名な方ではないと思う。andymoriに詳しくないので分からないが。

 

とにかく、この曲中に

「さくらとびわの並木道で見えた神様の姿」

という歌詞がある。そんでこの歌詞が最高なのだ。はじめて聞いたとき「神さまってそういうことだったのか」と衝撃を受けた。

 

読んでいる方には意味不明だと思うので、もう少し詳しく書く。私が想像するに、桜とびわの並木道は透けるような緑色と美しい光の並木道だろう。神さまはそこにいるのだ。いや、そこにいるという言い方ではまだ少し誤解が残る。もっと突き詰めて言えば「緑と光それ自体」が神さまなのだろう。そしてそれ自体に神さまを見出すのは自分自身なのだと私は感じた。神さまは元から存在していて私たちの眼前に突如現れるというわけではない。「私が」「神さまを見る」のだ。

だから桜とびわの並木道にいる人全員が神さまを見るわけではない。ただandymoriはさくらとびわの並木道に神さまを「見た」のだ。

 

ちょっと考えすぎだろうか?

けれど「見えた」という言葉の遣い方から私はやっぱり想像してしまった。andymoriは神さまが見たくて、神さまのことをいつも考えていて、だから桜とびわの並木道で神さまが「見えた」という風に。さらにそれはとても美しいことに思えた。

 

ちなみにこの歌詞は

「いつかはいつかは憧れのあの空に許される日が来ると思うかい?」

とつづく。ずっと許されたくて、神さまを考え続けている、その誠実さによって神さまは「見えた」のだろう。

私はこの歌によって神さまってのはいるんだなと信じるようになった。宗教的な存在でも、特別なものでもなく、ただただそこに在るという神さま。もしかしたら私もいつか神さまを見るかもしれない。それは綺麗な景色の中とは限らないなと思う。深い悲しみの中、通勤電車の中、家族の表情の中、好きな本の中、さまざまな所に神さまが現れる気配を感じながら最近は暮らしている。

f:id:haru_izumi:20200507213459j:image